ANMELDEN「瓶の栓を抜くくらい、いいでしょ?」涼は言った。
蓮は一瞬きょとんとし、それから吹き出した。彼女の手を離し、両手を軽く上げる。「わかった。俺の見立て違いだったな」
涼は手を袖の中に引っ込めた。心拍は不自然なほど落ち着いている。訓練の成果だ。だが、掌にはすでに汗がにじんでいた。
彼が見誤ったとは思えない。この動きを一目で見抜ける人間は、同業者か、潜入捜査官を見つけることに長けた人間くらいだ。
肩に手が置かれた。
「新人か?」
脂ぎった声。酒臭い息。視界の端に太い金のネックレスと、リストバンドを巻いた手が映る。男はそのまま彼女の隣に腰を下ろした。体重をカウンターに預ける。「ナイトリンクから沙織の取り立てに来たのはお前か? 俺は猿渡だ。ルージュの売掛はずっと俺が回収してる。俺のシマで仕事を横取りするなら、筋ってもんを通すんだ。わかってるよな?」
「猿渡さん」蓮の口調が、急に丁寧になった。「この子、今日が初出勤なんですよ」
「お前は引っ込んでろ」猿渡は蓮を見ようともせず、酒臭い息を涼の顔に吹きかけた。「筋ってのはな、最初の一週間の稼ぎの三割を俺に納めることだ」
涼は動かなかった。頭の中で男の情報を整理する。三十五歳前後。右手に拳ダコ。左膝に古傷。重心は右寄り。酒が回っている。三手あれば倒せる。だが、ミオはそんなことができる女じゃない。
「お兄さん、私、まだ一円も回収できてないんだけど」
「なら、先に借りを作っとけよ」猿渡の手が彼女の腰へと滑る。「俺に付き合え。利息は俺が自分で取り立ててやる」
涼はカウンターの下で、指を一本ずつ握り込んだ。初出勤の小娘が関節技を使えるはずはない。だが、ただ耐えればいいわけでもない。こういう場所では、一度なめられたら、その後は毎日つけ込まれる。
「こいつは、俺の女だ」
隣から声がした。大きくもなく、寝起きのような気だるさを含んでいる。
蓮は新しく注いだビールを猿渡の前へ滑らせた。もう片方の手を涼の背後にある椅子の背に置き、長い脚を伸ばして、彼女と猿渡の間に半歩分の壁を作った。
カウンターの空気が、一瞬止まった。
「蓮、お前、今なんつった?」
「この子は俺の女だって言ったんだよ。拾ってきたばかりだが、帳簿を読める」蓮は笑い、彼女を自分のほうへ少し引き寄せた。「ここで手を出されたら、今夜の沙織の売掛は回収できなくなる。月末に若頭が帳簿を確認したとき、ルージュの数字がまた合わない理由を、あんたはどう説明するつもりです?」
猿渡の顔色が変わった。
一方、涼の背筋はじわじわと冷えていった。三百万以上の借金を抱えた末端のチンピラに、なぜ猿渡の帳簿が見える? 誰かに見せてもらっているのか。それとも、ずっと誰かのために帳簿を監視しているのか。
「帳簿を持ち出して俺を脅す気か?」猿渡は鼻で笑った。「借金まみれのクズが、偉そうに――」
「脅しじゃありません」
涼が口を挟んだ。男二人が同時に振り向く。
高瀬は言っていた。使える人間だけが生き残る、と。そしてこのクズは、たった今、自分から彼女に刃物を差し出してきた。
涼は身を乗り出し、レジの下からバーテンダーが押さえていた帳簿を引き抜いた。開くと、ルージュの売掛記録だった。彼女は数秒で一ページに目を通す。警察学校を卒業したあと、二課で半年ほど帳簿の照合作業を手伝っていた。こうした手書きの帳簿は、銀行の取引明細よりずっと読みやすい。
「三番テーブル、沙織、三十八万円。月利一割」ミオらしい、どうでもよさそうな口調で言いながら、指先で二行の数字を叩く。「こっちの利息は店が回収してる。でも、こっちは同じ客から、同じ金に対してもう一度取ってる」さらにページをめくる。「このページにもある。たった二ページで二件、合計四万六千円。片方は店の帳簿に入ってる。じゃあ、もう片方は誰の懐に入ったの?」
カウンターにいた全員に聞こえていた。隣のテーブルでは、ホストが酒を注ぐ手を止めた。
猿渡の顔から、少しずつ表情が消えていく。利息の二重取りは、組の金を着服したも同然だ。若頭の耳に入れば、指一本では済まないかもしれない。
「小娘」猿渡はゆっくり立ち上がった。「もう一度言ってみろ」
涼は顔を上げ、甘ったるい笑みを浮かべた。「お兄さん、そんなに金に困ってるの?」
拳が風を切って飛んできた。
彼女は避けなかった。ミオなら避けられない。ここは殴られるしかない。角度は計算済みだ。鼻筋を少しだけ外せば、せいぜい口の端が切れる程度。殴られたところを店中に見せれば、初出勤の女を猿渡が殴ったという事実だけが残る。
パシッ。
拳は、彼女の鼻先から十センチのところで止まった。
斜め横から伸びた手が、猿渡の手首をつかんでいた。蓮はハイチェアから降りることすらなく、手首を返してひねる。猿渡の腕は背中へねじり上げられ、顔からカウンターに叩きつけられた。グラスがガラガラと音を立てて倒れ、酒が飛び散る。
一秒にも満たない。無駄な動きは一つもなかった。
涼の瞳孔がわずかに縮んだ。街の喧嘩で使うような動きではない。警察学校で一年間格闘訓練を受けた彼女でさえ、あれほど鮮やかには決められない。
「悪いな、猿渡さん」相手を押さえつけたまま、蓮は相変わらず気だるい口調で言った。「俺は自分が飲んでる店で暴れる奴が大嫌いなんだ。うるせえから」
「蓮……てめえ……」
蓮は猿渡の耳元に顔を寄せた。声は小さかったが、涼にはちょうど聞こえた。「次に利息を取るときは、二重取りするなよ」
彼は手を離した。
猿渡は起き上がり、顔を赤黒く染めて手首をさすりながら、蓮を睨みつけた。最後にその視線が涼の顔へ移り、長いことそこに留まった。
「お前ら、覚えてろよ」
ドアが轟音を立てて閉まった。バーテンダーは黙ってグラスを起こし、自分が食器洗い機にでもなったかのように振る舞った。
隅の席にいた沙織は、一部始終を見ていた。涼が借用書を手に近づくころには、少女はもうバッグを開けていた。三万円は蓮が立て替えた分だ。店の精算分と合わせ、三十八万円のうち最初の八万円をその場で回収できた。涼は借用書に署名した。本来なら、こんなに簡単に回収できるはずの金ではなかった。
取り立てを終えて店を出ると、雨はまだ降り続いていた。
「ミオ」
蓮は、骨組みの折れたあの傘を差して軒先に立っていた。片方の肩はずぶ濡れで、シャツが身体に張りついている。海斗は彼の足元にしゃがみ込み、新しく買った透明な傘を抱えて、彼女にへらへら笑いかけた。
「どうして助けてくれたの?」涼は単刀直入に尋ねた。
「助けたわけじゃねえ。俺がよく来る店で騒ぎを起こされたら、酒がまずくなる」
「じゃあ、どうして私を自分の女だなんて言ったの?」
「あれは嘘だ」彼はあっさり答えた。「本気にするなよ」
「してない」
「ならいい」
蓮は海斗の腕の中から新しい傘を抜き取り、彼女の手に押しつけた。自分は壊れた傘を差したまま、背を向けて歩き出す。
二歩進んだところで、彼は立ち止まった。振り返りはしない。
「そうだ」雨音に紛れるほど小さな声だった。「右手を空けておく癖、直しとけ」
涼は傘の柄を握る指に、ぐっと力を込めた。
蓮は片手をひらひらと振り、雨の中へ消えていった。海斗も軒下から飛び出し、ぺちゃくちゃしゃべりながら、その後を追いかけていく。
涼はその場に立ち尽くし、彼の背中を見送った。左足の着地が右足より半拍軽い。どこかを痛めたことがあるのだろう。
この男は、初対面で彼女の正体を見抜いた。ミオではないと知っている。彼女が何者なのかまで、察している可能性もある。今夜、猿渡に一言でも余計なことを話していたら、明日には彼女は東京湾に沈んでいただろう。
それなのに、彼は彼女の正体を暴かなかった。それどころか、もっと上手に隠す方法まで教えた。
彼はいったい、何を望んでいる?
「瓶の栓を抜くくらい、いいでしょ?」涼は言った。蓮は一瞬きょとんとし、それから吹き出した。彼女の手を離し、両手を軽く上げる。「わかった。俺の見立て違いだったな」涼は手を袖の中に引っ込めた。心拍は不自然なほど落ち着いている。訓練の成果だ。だが、掌にはすでに汗がにじんでいた。彼が見誤ったとは思えない。この動きを一目で見抜ける人間は、同業者か、潜入捜査官を見つけることに長けた人間くらいだ。肩に手が置かれた。「新人か?」脂ぎった声。酒臭い息。視界の端に太い金のネックレスと、リストバンドを巻いた手が映る。男はそのまま彼女の隣に腰を下ろした。体重をカウンターに預ける。「ナイトリンクから沙織の取り立てに来たのはお前か? 俺は猿渡だ。ルージュの売掛はずっと俺が回収してる。俺のシマで仕事を横取りするなら、筋ってもんを通すんだ。わかってるよな?」「猿渡さん」蓮の口調が、急に丁寧になった。「この子、今日が初出勤なんですよ」「お前は引っ込んでろ」猿渡は蓮を見ようともせず、酒臭い息を涼の顔に吹きかけた。「筋ってのはな、最初の一週間の稼ぎの三割を俺に納めることだ」涼は動かなかった。頭の中で男の情報を整理する。三十五歳前後。右手に拳ダコ。左膝に古傷。重心は右寄り。酒が回っている。三手あれば倒せる。だが、ミオはそんなことができる女じゃない。「お兄さん、私、まだ一円も回収できてないんだけど」「なら、先に借りを作っとけよ」猿渡の手が彼女の腰へと滑る。「俺に付き合え。利息は俺が自分で取り立ててやる」涼はカウンターの下で、指を一本ずつ握り込んだ。初出勤の小娘が関節技を使えるはずはない。だが、ただ耐えればいいわけでもない。こういう場所では、一度なめられたら、その後は毎日つけ込まれる。
十か月前、2025年4月。歌舞伎町には、雨が降っていた。涼はホストクラブ「ルージュ」の看板の下に立ち、ガムを噛みながら、ピンクのジャケットの襟を立てた。スマホのメモをもう一度確認する。三番テーブル、沙織、売掛三十八万円。売掛とは、いわゆるツケのことだ。ホストクラブでシャンパンを入れた女が支払えなければ、ひとまず店が立て替える。その後、組の人間が取り立てに来る。回収できなければ、その借金は別の形に変わる。たとえば、風俗店で働くための契約書に。これが彼女にとって初めての仕事だった。今夜の彼女はミオ、二十二歳。群馬出身、大学中退。池袋で八か月ほどキャバクラ勤めをしていた。金に目がなく、命が惜しくて、口だけは達者。蒼誠会のフロント企業「ナイトリンク」では、計算のできる集金役の手が足りなかった。マネージャーのゆみ姐が、昨日ちょうど彼女を雇ったところだ。本名は篠宮涼、二十五歳。警視庁組織犯罪対策部の巡査部長で、コードネームはM-07。三週間前、連絡担当官の高瀬が一枚の写真を彼女の前に差し出した。写っていたのは、白いシャツを着た中年の男だった。「鷹野。蒼誠会本家の若頭だ。この界隈の店の半分は、毎月こいつに上納金を納めている。裏金はすべてこいつの手を通り、もう一冊の帳簿に記録される」高瀬は言った。「潜り込んで、その裏帳簿を見つけろ。それ以外のことには一切かかわるな」涼は、今回の潜入を志願した理由がほかにもあることを、彼には話さなかった。だが、高瀬はおそらく察していた。彼女はガムを吐き捨て、ドアを押し開けた。むっとする熱気が押し寄せた。香水と酒と煙草の匂いが混ざり合い、店内のスピーカーからは十年前のラブソングが流れている。彼女が入口で立ち止まったのは、ほんの一秒にも満たない。正面の出入口、カウンター奥の厨房口、右手の非常階段、トイレの小窓。出口は四つ。逃走経路を頭に描いてから、ようやく店内へ足を踏み入れた。そして、カウンターの一番奥にいる男に気づいた。黒いシャツ。壁にもたれ、目の前にはほとんど口をつけていないビールが一杯。三十代前半、肩幅が広く、脚が長い。襟元のボタンを二つ外し、髪は無造作に乱れていた。店で一番高いホストでさえ、隣に立てば作り物めいて見える。男の顔には気だるげな笑みが浮かんでいた。まるで、この店も、この街も、今夜の雨さえも、すべて自分に借金
タオルが三度目に顔へ押しつけられる前に、涼はどうにか半息を吸い込んだ。氷水が浴びせられ、鼻から喉へと流れ込む。彼女は心臓の鼓動を数え始めた。父に教わった方法だ。耐えられなくなったら数を数えろ。痛みを数字に変えるんだ、と。十九回目を数えたところで、タオルが引きはがされた。椅子ごと身体を半ば持ち上げられ、そのままコンクリートの床に叩きつけられた。彼女は肩に顔を押しつけるようにして咳き込み、血の筋が混じった水を吐き出した。手首には結束バンドが食い込んでいる。もう三日目だ。締めつけられた箇所の感覚は、とっくになくなっていた。「咳は済んだか?」向かいの男は、客にお茶が冷めていないか尋ねるような、丁寧な口調で聞いた。鷹野は折り畳み椅子に腰掛け、白いシャツの袖を肘までまくり、青磁の茶碗を手にしていた。蒼誠会本家の若頭であり、東京の裏社会で二番目の地位にいる男だ。彼がわざわざこの地下室まで足を運んだのは、彼女にたった一つ、問いただすためだった。「篠宮巡査部長」鷹野は茶の表面に息を吹きかけた。「もう一度聞く。お前の連絡担当は誰だ?」涼は顔を上げた。彼女の名は篠宮涼、二十五歳。警視庁組織犯罪対策部所属、コードネームはM-07。この界隈では、十か月ものあいだ「ミオ」と名乗っていた。数日前まで、連中も彼女をミオと呼んでいた。正体が露見したその時から、鷹野だけは呼び方を変えた。彼はすでに、彼女が警察官だと知っている。今この質問をしているのは、彼女の背後にいる人間を一人残らず吐かせるためだ。「何度も言ったでしょう」自分の声とは思えないほど、喉はかすれていた。「私は田中花子です」鷹野は、なかなか面白い冗談を聞いたとでもいうように、薄く笑った。そして隣へ指先を向ける。部屋の隅から老人が現れた。六十代半ば、骨と皮ばかりに痩せ、白い手袋をはめている。三十年にわたり鷹野の運転手を務めてきた男だ。この三日間、一言も口を利いていない。老人はバケツを持ち上げた。中の氷がガラガラと音を立てる。彼は再びタオルを水に浸した。涼はバケツを見つめ、呼吸をゆっくり整えた。話すわけにはいかない。口を開けば、連絡担当官も、同僚たちも、札幌の高校に通う少女の父親も、誰一人として生きてはいられない。二晩は耐え抜いた。三晩目だって乗り切れる。あと少し、耐えれば――廊下から革靴の足音が聞こえてきた。